◎神の子として生まれて、生神へ向かっての精進こそが最高最大の還元。心に背くようなものがあってはならない。背信行為。成り行きを尊ぶとは生神への精進を目当てとせねばならない。
%1テレビドラマ「旅路」から
%2親先生が感じられる神様との隔たり。
昭和四十三年二月十六日 朝の御理解
ここでは自然に成って行く。自然の中に成就して行くという事。成行きを大事にさせて頂きながら、信心を進めさして頂く。そこに自ずと成就して行くという。ここのところを皆さんも体験しておいでられ、またここのお広前のあり方というものをずっーと見ておいでられますと、成程自然に成って行っておる。成行き成就して行っておる。ね。それは成程、自然を成行きを大事にして、その成行きを通して私共信心を分からして貰う。
成行きを通していよいよ一段と信心を進めさして頂くというものがなからなければ、自然に成って行かないですね。ただ時節を待つとか、成行きをそら大事にして行くという事は、成行きを大事にして行くという内容は、成行きを通して自分自身が一段と磨かれて行く、一段と改まられて行く。そういう働きが自分の心の中に起こって来る。そういう働きが神様の働きと働き合いになって来る。そこに自然自然に有難い事へ有難い事へと事が成就して行く。勿論、自分の心も一段一段有難く有難く育って来る。ね。それが合間っていかなければ、自然の中に成就して行くという事はありません。本当のおかげになって行く事はありません。
%1昨日、一昨日でしたか私、あの午後からテレビで旅路というのがあっとりますでしょうが。皆さん御覧になってるでしょうか。私も時々見る、けれども最近見ましたら、あの息子の秀夫というのがもう親の所を離れて出てるんですね。そしてあれは何ていうんでしょうか、勘三郎の娘の波野かなんかですね。あの人がなんかこうお世話をしておるという様な場面だったんですね、昨日のとは。親も秀夫のことを一生懸命思い続けておるのでしょう。
%1ずっと見らんから分からんのですけどもね。子供もまたいつも親の事を思い続けておる。いや親に心配かけちゃあならん、親に孝行せにゃあならんという心をいつも持っておる。親もまた今、秀夫がどこにどうしておるか、といったふうに思い。お互いが離れておるけれどもその思いは一つと言った様な感じでしたですね。その場面があんまり飛んでおりますから意味が分かりませんけれどもそんな感じでした。
これは、ま旅路に限らず、これは私共親として子供として、これは、ま殆どの親子がそうでなかろうか、とこう思うですね。例えば、何かの時に家出をした。そしてそんなら、例えばそんな、も親と暮らしたくない、と言うけど。そうじゃあなくて親が憎いからと言うて子供が出る、という様な事はないですね。また子供が憎いから親は子供を出す、という様な事もない。
そこに何か、その親の気持と子供の気持がこの一緒にならない。ね。例えば子供は、も少し勉強がしたい。親はその程度でようはないか。そこにやむにやまれん何ものかが。んなら東京なら東京に子供を出してしまっておる。ですから東京と、例えば九州に離れておりましても、その親の思いと子供の思いというものはいつも交流しておる。ね。
私は思うのにですね。本当に親の手元でですねえ。親の心に通い続けるところの信心生活がして見たいと、またさせて頂かなければならんと思う。なら私、ここ神様に、いつも側におるから神様と共に親子が一緒に仲良う生活しておるとは、あながち言へない事があるのです。ね。心は神様と、いわばそれこそ、東京と九州に離れておる様な場合もあるのです。というて交流はしておるのですよ。いつも交流はしておる。神様と通うてはおる。
何がそういう、んなら遠い遠いものにしておるのか。という事ですね。最近、最高最大の還元として、ね。神の子として生まれて、神の生神へ向かっての精進こそが最高の還元だ。とこう言われておりますね。神様から神様へ還って行く。元の親なら親の所へ還って行く。ね。いうならわが心が神に向こうて行くのを信心というのじゃあ。という事なんです。
わが心が神様へ一歩一歩近づいて行く。神様へ自分の心が一歩一歩向こうて行く。進んで行く。ね。そういう生き方がお道の信心なんです。だからどうでも、そういう自分の心が神様へ向こうて行くという事を楽しみに精進させて頂いておるものは、今日私が言うところを本気で、ひとつ分からなければならないとこう思うのです。成程神様と私共の交流しておる証拠には、おかげを受けておるのである。ね。
またそれに精進し取り組んでおるから、いつの間にか成就して行きよるのである。成行きを大事にさせて頂きながら、その成行きの中なら神様の思いをいよいよ分からして貰い。信心も一段と進んで行きよるから、事が物事がこうしてスムーズに順々におかげを頂いているのである。ね。そういう例えば、ならおかげを頂いておっても、厳密に自分というものを良く見てみると旅路の秀夫じゃあないですけれども。ね。
親の事を、もう切実に思う。子供もまた、あ、親もまた子供を切実に思う。何時の時分でしたかね。何か悪い事をしておる。と言った様な事のニュースが入った時にお母さんであります、何とか言いますがね。その秀夫に限ってそういう事がある筈がない、ともう子供を信じ切っておるのですね。いやあの子に、例えば遠く離れてこうしてはおっても、どこにどういう風にしておるか分からんけれども。
秀夫に限ってそういう様な事をしておる事は、そういう事はないってこう断言しておる。子供を信じ切っておるのである。ね。親と子の思いというものが、遠く離れておってもそういう様な、親を信じ子供を信じた中から交流しておるけれども。これはやはり離れておる。ね。だから、いわば本当の親と子とはこんなに有難いものだという生活に入ってない事だ。
そうでしょうが。本当は親と子が側にひとつの家に生活させて頂いて、ね。親は子にかかり子は親にかかりという様な私は、生活をさせて頂くという事が本当は、親子円満な姿だとこう思うのですよね。年を取って行く親を子供がずっーとそれを見ていくという事、側で。それこそ痒いところに手がとどく様な親と子との思いが交流する。
同じ家の屋根の下でですね。それを生活していくという事が本当の親子の良い有難い生活だとこう思うのです。だから私は、そういう様な意味合いに於ての信心をしたい。神様と私がいつも同じ屋根の下に、本当に親子が睦まじい生活をしておる様な信心をしたい。ただ神様といつも交流しておるという事がですね。側にあるという事じゃあないのですよね。今日私の表現で言うと。
心は遠く離れておる。神様と私共が、いわゆる親と子が。ね。いうなら九州と東京に離れておる様に離れておる。離れておるけれども親は子を思い子は親を思うて、ね、思いが通うておるんだという様なものが、私達のま、現状じゃあなかろうかとこう思う。ね。勿論神様も、あの氏子に限ってとこう信じて下さっておるのに違いはない。
私共もその親の元に、本当に信心は親に孝行するも同じ事ぞやと仰る。そういう親孝行の本当の信心がさせて頂きたいとこう思うけれども。何が親と子をこんなに離しておるかという事なんです。ね。私共が本当の還元の生活に入るという事は、私共がいよいよ生神を目指すという事。
いやあそげんもう生神やら目指さんでも、もうこのおかげさえ頂きゃあ、これが一つ成就すりゃあそげんもう神様の様にならんでも良か。というこれならもう今日の御理解は全然分からないと思うのですけれども。私共がもう限りなしにそこの所を願い求め続けていく信心であるならばです。それを事実感じるんです。神様と遠いものである。というて、なら交流はしてる。ね。
%2交流する為の手立てもそういう修行もさせて貰う。私が御結界に座らせてもろうて、神様の側にこうして御奉仕させて頂いとるから、いつも神様と私が同じ屋根の下に生活している親子の様な状態になっておるかというとなっていない。驚くばかりになっていない。交流はいつもしておる。皆さんがお伺いなさると御神意を伺えば神様が教えて下さるのですから。交流しとかなきゃあ出来る事じゃあないのですけれども。
%2もっともっと厳密にいうところの親と子の幸せというものをです。ね。親は子を信じておる。子供は親を信じておるというだけでもそりゃあ幸せなんです。ね。今の旅路の、昨日、一昨日の場面の様なもの。親を軽蔑しておる訳でもない。子供を信用しとらんという訳でもない。ね。親と子が尊敬しあいながらも、又は信じ合いながらも、何かの事情がそういう事になっておる。
%2いわゆる心に背いた生活をしておるという事なんだ。いわゆる背信の生活をしておるという事なんです。ね。だから、ここの所がですね。今日私が申します様なところ、信心とはわが心が神に向こうていくのぞという様な信心。最高の還元という事は、神の子として生まれて、我情我欲一杯に育って、その我情我欲を外させて頂いて、いよいよ神を目指すところの信心に、というような最高の還元の生活に、いよいよ入らせて頂こうという願いが基でなからなければ、今日私が言う事は分からんと思うのですね。
%2これでは神様にはなれないのだ。自分の心の中にね。いわゆる心に背くものがあってはならないという事。ね。こげな事じゃあいけんと思うけれども。こういう心の状態、こういう事をしておってはというそれが背信だ。心に背く。いわゆるそれが行為である場合は背信行為という事になるのである。心には右と願いながらも、身体が左の方に動いておると言うのである。言うなら、ね。
それは丁度、まあ旅路の秀夫が思っておるであろう様にです。ね。こういう生活を何時までもしとっちゃあいかん。早う親に安心させないかん。親に喜んでもらわないかん。早く親の元に帰らなきゃあいけん。あの時に、あの波野久里子というですかね、が演じておるのがセリフに言うところがあります。「お父さんお母さん暫くお待ち下さい。必ず秀夫ちゃんを元の秀夫ちゃんにしてお帰しします。」という様なセリフがありましたよね。
秀夫自身もそれを思ってるんです。ね。今は親の心には背いておる。いわゆる親の心に背くのじゃあないとかあるとか、という事はですね。結局わが心に向こうて行くのを信心というのじゃあ、という様な信心に向こうていかないとです。ね。背いておる事すらが分からんのです。ね。こんな事じゃあいけんとこう思うてる間は、やはり背信。心に背いておるのだ。ね。
こんな事じゃあいけん。こんな事じゃあ親の元に帰られない。これが神様と私の間を遠いものにしておる。と言うてなら親不幸しておるものでもなからなければ、親を恨んでおる事でもなからなければ親を尊敬しとらんという訳でもない。けれども、ここに何とはしに遠いものがある。ね。ここのところを縮めていくという事です。ね。わが心が神に向こうていくのであるという事なんだ。ね。
口に真を語りつつ心に真のなき事。これなどは、もう本当に背信ですよね。口に真を語りつつ心に真がないのですから。ね。一日でもよい二日でもよい、本当に親の元にあるという事がこんなに素晴らしいものだ、という事を親子が感じあえれる為にですね。今日一日だけでよいから背信行為をしまい、ね。口と心が同じの生活をさせて頂こう。
そういう精進を私共が、本気でさせて頂いたら親と子が一緒に、神様の側におっての私は体験が頂ける。ね。それを例えば、月のうちの二日でも三日でも四日でもという様に、段々この親子一緒に過ごさせて貰うという事が、こんなに有難いものだという体験を積んでいったらどうだろうかと、今朝から私が思う。ね。
も今日という今日はひとつ自分の心に背く様な事は言うたりしたりせんぞという。はあこげな事じゃあおかげ頂けんはずじゃった、といった様な事はない様な一日でありたいとこう。そこにはですね。例えば遠く離れておっても交流しておるんですから、ね。側で交流するのですから、ね。本当に痒い所に手の届く様な親孝行が出来るのですから、神様もまた私共の痒い所に手の届く様なおかげも下さる事が出来るんだという事。
どんなに母親が非情な事を思うても、ね。どんなに親の情を持って思うても、さあ痒かところ一つが掻いてやる事が出来んのである。側におって初めて掻いてやる事が出来るのである。ね。親にもそうである。痒い所に手の届く様な信心させてもろうて初めて、痒い所に手の届く様なおかげも頂けれるという事をです。お互いが本当に体験させてもらう。
ためには私共の心がいつも、ね。真実、最高最上の還元とは、わが心が神にいよいよ還って行く精進こそが大還元の生活であるという様な、そういう大変な大きな理想の下に信心を進めていく。わが心が神に向こうていくという事を楽しみにしていく。この事が一つ成就すればといった様なものじゃあない。ね。成行きを大事にさせて貰う。ね。いつの間にか、段々おかげを頂いてきておるというのはです。ね。
出来んながらもそういう所に取り組ませて頂いて、信心をさせて頂いておるから、その成行き、その事柄を通して一段と信心を進めさせて頂いておるから、ね。成行きに任せておけば、ね。去年よりも今年、今年よりも来年という様に、必ず良い方へ良い方へ、有難い方へ有難い方へと繁盛のおかげを頂いていっておらないするなら、ね。私共の心が神へ向かう信心をしていないのだ。
いいえ、もうこれしこ頂けば良かといった様なケチな信心しておるから、この時には頂けたけれどもその次にはもうまた元に戻しておる、といった様なつまらん、つまらんという信心というですかね。やはりつまらん信心ですよね。そういう信心からお互い脱皮させてもろうて、脱却して、ね。もう一年一年おかげの頂いていけれる信心。一年一年繁盛に近づいていく信心、一年一年有難うなっていく信心。ね。
それには私は、今日の様な御理解のところをです、本気で目指さなければいけんのじゃあないかとこう思うのです。一日よりも二日、二日よりも三日、ね。今日こそは神様の心に背く様な、いや神様の心に背くんじゃあない自分の心に背く様な、ね。背信的な行為、言動を慎ませて頂いていくこそ神様と共にあるところのおかげ。おたがいに痒い所を掻き合うていけれる様なおかげが頂けるんだという事を、体験させてもらわなければ駄目だと思うんですよね。どうぞ。